夢の先にある夢
私の野心は動物の保護団体に
心の余裕を持って寄付すること
小さい頃から動物関係の仕事につきたかったのですが、
進路を考える時期に自分と向き合った結果、
元々感情移入が酷く自分の心身を崩すのが怖く、
一歩踏み出すことが出来ませんでした。
札幌にはツキネコという保護猫団体がいて、
よくお邪魔させて頂いております。
ここから4匹譲渡させて頂きました。
早朝から深夜まで、
皆さんが北海道の猫のために走り回っています。
ただただ頭が下がる思いです。
本当に尊敬しています。
冒頭に戻りますが、
私の野心の第一歩は、
ここに毎月決まった額の寄付をすることです。
本当であれば、現場でボランティアとしてお手伝いすることが喜ばれると思いますが、
劣悪な環境にいたせいで、目が飛び出ていたり大怪我していたり、弱り亡くなる子の側にいると、純粋に切なく悲しくなります。
その悲しさを自分で消さないと、私からの負のエネルギーがでてそれがケアの邪魔をすると知りました。
そこで私は、愛のエネルギーをお金で届けたいと思うようになりました。
偽善と言われてもいいのです。
声を大にして言います。
しない善よりする偽善です
昔、私はただの偽善者なのではと悩んだこともあります。本やSNS、ネットなど色々読んだ結果、2チャン(今は5チャン)でずっと抱えてきたモヤモヤが、自分の中にすとんと落ちたやりとりがありました。
その記事を見つけれなかったので、
私の言葉で共有させて頂きます
電車に乗っていると杖をついたおばあさんが乗ってきました。車内は満員です。
Aさん『おばあさん座れない…でも席を譲ると周りから注目されるし、良い子ちゃんって思われるかもしれない。どうしよう…他の人が変わってくれるかもしれないし、私は見守ろう…おばあさんに、席を譲ってくれる人が現れますように(心の声)』
Bさん『ばあさん座れんのや。だるいけどもしかしたらどこかでイケメン見てるかもしれないし変わるか(心の声)』「おばあさま良かったらここの席どうぞ」
自分だったら、有り難い行動はBさんです。
心の声がどうあれ、おばあさんが助かったことには変わりはありません。
(心の声が伝わってしまうと話が変わりますが)
極端な例ではありますが、
この記事をみて
自分の行動が善か偽善かジャッジすることが、
いかにくだらないということか気がつきました。
やることに意味があるのです。
極論、理由なんて相手の人には関係ないのです。
なんだか日本は、
「寄付しました」と公でいうことに、
なんだなマイナスなイメージを持たれがちですよね。
偽善と思われるからです。
寄付したいと思い始めたきっかけは、
幼少期の経験と、
社会人になってからの経験です。
この内容に関しては後日綴ろうかと思っています。そして、私のotoという名前の由来でもあります。
ちょっとしんみりしちゃいました。
今も私の膝の上で、
愛おしい我が子が寝ています
有限な時間の中で、
沢山の愛を感じています